追悼 エドワード・ケネディ |
追悼 エドワード・ケネディ 平沢淑子 パリ、2009年が静かに幕を降ろしつつある時、私はアメリカ、マサチューセッツ州 Hyannis Port から一通の封書を受け取った。 エドワード・ムーア・ケネディ上院議員の遺族からの、私が送った弔文に対する丁寧な礼状であった。 2009年8月25日、エドワード・ケネディ、愛称テッドの訃報が、フランスでも大ニュースとして、TV、新聞で報じられた。 脳腫瘍の手術後療養中とのことは知っていたが、オバマ大統領の就任式に出席したり、大統領のお嬢さんに犬を贈ったりしたなどというニュースも聞いていたので、順調に回復へ向かっていらっしゃるのではと思っていた。 突然の訃報、痛恨の思い居たたまれず、私はFAXで夫人と遺族にワシントンのオフィス宛で弔文を送ったのであった。ナンバーなどは日本のケネディの会の松村氏がメールで知らせて下さった。 葬儀、埋葬の様子はテレビでも報道されていたが、ワシントン特派員の新聞記者の友人が、現地から直接メールで、詳しく伝えてくれた。 ワシントンDC......私は一度だけ行ったことがある。それはテッド・ケネディと会見するためであったのだ。 NHK東京放送総局でアナウンサーをしていたときのことだ。出張でニューヨークに行く折、慶大時代国際関係に興味をもつ「伸び行く青年の会」をちょっと知っていたため、主催者の同級生堀添さんに、なんとかワシントンまで足を伸ばしてテッド・ケネディに会って日本の青少年とのフレンドシップの扉を開いてきてくれないかと頼まれたためであった。 テッドはなかなか会うことの難しい方と聞いていたが、運良く当時のNHK土屋ワシントン支局長が、テッドの右腕である秘書とコンタクトがあるとのことで、私との会見のお膳立てをしてくださったのである。 おかげで私はたった一人でテッドの上院議員オフィスを訪ねたのであった。 入り口までは日本大使館の書記官が付き添い、立派な車で送迎もして下さった。 遠いところから良くいらして下さったと、テッドは温かくオフィスに迎え入れて下さった。テッドはすらりと背が高く、繊細なイメージの貴公子、当時まだ三十代前半の青年セネターであった。 私はどの様な挨拶をしたのかは覚えていないが、彼のオフィスの壁に所狭しと児童画が飾ってあり、それが快い色調であったせいか緊張がほぐれて「貴方のお子様の絵ですか」と真っ先に質問したのだった。 するとテッドはニコニコしながら、これは娘の絵、こちらは息子の絵と近くまで導いて説明してくれたのである。そしてちょっとはにかみながら、あれは私が描いたのです、と一点の作品を指差した。それは明るいブルーの海景の水彩画であった。絵を描くのが趣味ですとおっしゃっていた。 私も絵を描くのが趣味とそのときは言わなかったが、絵のおかげでなんとも和やかな初対面となった。 しばらくソファーに座って対談をしたあと、テッドは是非議事堂を案内したいと誘い、オフィスの地下から議事堂をつないでいる地下鉄に乗せてくれた。遊園地の乗り物のようなミニ地下鉄で、足の長いテッドと秘書は身体を縮めてその小さな椅子に座ったのが微笑ましくつい笑ってしまった私。 議事堂はなんと広大で、あちこちご案内いただいた間、テッドは自ら2度も椅子を探してきてくれて私を休ませてくれた。手には私のバッグを持ってくれた。 最後は長い階段を登って屋上に出て、ここは一番写真映りが良いところですとおっしゃり、そこでご一緒に記念写真におさまった。 終始テッドの優しさにいたわられながら過ごしたひと時が、日米青少年友好のための使命を果たしたものかどうか、、、 私はその後、ブォイス・オブ・アメリカ・ラジオ・ステーションのスタジオでインタヴューを受け会見の様子を話し、また日本に帰ってから、若者向けに「エドワード・ケネディ会見記」を学研の中学コースに執筆した。 そして長い年月が過ぎた。 私は今は一人の画家として長いことパリに住んでいる。 最近、耳にしたことであるが、その後テッドはあの青年の会のメンバーが訪ねて行くと快く会って下さったそうである。 青年の会は今も存続しているかどうかはわからないが、当時の主催者、会員の中から、JICA、国際協力機構の重要ポストで活躍している人、各種の国際ボランティア活動に身を捧げている人が育っているようである。 私は今、テッドがその後描いた絵を見たいと思っている。 ずっとあの青い海を描き続けていらしたのだろうか。何故か彼の描いた水は、とてつもなく澄んだ"生命の水"のような気がするのである。 パリ 2010年 一月一日 |
by kennedy-society
| 2010-01-12 23:06
| 平沢淑子
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